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2011年 12月 25日
天正年間、ほぼ九州を手中に収める勢いで北上を続けた島津。その当時の島津家を率いた当主、島津義久の墓地は鹿児島県内3か所に残っています。今回その三か所を巡る機会を得られたので、ここにその様子をまとめておきます。 ![]() ≪島津義久の墓所と明治の廃仏運動の痕跡≫ 島津義久の墓所は、鹿児島市内の福昌寺跡、霧島市国分の金剛寺跡と徳持庵、合計3カ所。 鹿児島県は国内でも特に明治における廃仏毀釈(仏寺の破壊)が激しかったといわれている地域ですが、義久の墓所もその例にもれず三か所全て廃仏毀釈の影響を受けていました。興味深いのは三か所それぞれで影響の受け方が異なること。今回の記事ではその点を中心にご紹介できればと思います。 ※いずれ史跡めぐりはまた別の場所にまとめようと思うのですが、ある程度記事が貯めるまではこちらにおいておきます。 ①福昌寺跡(鹿児島市) 福昌寺は歴代島津家の当主が葬られた島津家の菩提寺にあたる寺でした。往時には僧侶1500人居たといわれる巨刹でしたが、明治2年に廃寺となり「長谷場墓地」と名を改めました。 ![]() 福昌寺跡の墓所一例。島津久光の墓。歴代仏教信仰が厚かったとされる島津家ですが、幕末明治には廃仏の風潮が強まり、幕末維新期島津の権力者・島津久光は神式で埋葬されています(鳥居はそのため)。 ![]() 歴代島津家当主が埋葬されるこの墓地において、義久は左下の戦国期の島津家当主が埋葬されている区域に葬られています(今回のテーマからは逸れますが、17代(この案内では18代)当主・家久の墓のみ別区画にあるのが意味深長…)。 ![]() 義久の墓には、この墓所に葬られる他の当主達とほぼ同型の仏塔が建てられています。 実は今回の訪問は私にとって再訪(三度目)となります。今回は一つ確かめたいことがあったのです。 J.E.ケテラーという廃仏毀釈を研究するアメリカ人の方が書かれた「邪教/殉教の明治―廃仏毀釈と近代仏教」に、「島津家の人々は数世紀にもわたる熱心な仏教徒であり、みな法号を得ていたが、それにも神式の改号が与えられた。こうした改号は島津家の墓石一つ一つに実際に刻みつけられたが、法号を削ったその上に新しく刻まれる場合も多かった。」という記述があります。 鹿児島の廃仏運動は徹底的だといわれていますが、もし本当に法号が削られてというなら、あまりに生々しい廃仏毀釈の痕跡が島津家の菩提寺跡に残っていることになります。それを是非目にしたく訪問したのですが… ![]() 側面には確かに義久の神号「大国豊知主命」が彫られています。が、 ![]() 正面は法名である「貫明存忠庵主」が。他の戦国期の島津家の当主達の墓碑も確認しましたが、全て同様の形式で彫られていました。 法名削った後、時代が流れて再度法名を彫ったのか、そもそもケテラーの情報が誤報や誤訳だったのか、あるいは他の次代の当主達の墓碑には法名が削られたままのものが存在するのか…。 今回は様々な憶測が浮かぶするばかりで、それらを立証する決定的な証拠は何も得ることはできませんでした。 高校の裏手にありながら、喧騒遠くしんと静まり返る福昌寺は来るたびに様々な興味を掻き立てる、私にとってとても印象深い史跡です。 住所鹿児島市池之上町48 アクセス:JR鹿児島中央駅前から市営バス22番葛山行き20分玉龍高校前下車徒歩3分 ②金剛寺跡(霧島市国分) 国分は慶長9年以降義久が没するまで居を構えた地です。その国分に建立された金剛寺の概要を霧島市のHPから抜粋すると、 義久の遺体は鹿児島市の福昌寺に葬られましたが、その一部(抜歯といわれる)が(金剛寺に)祀られたものとされています という由緒の寺のようです。 ![]() 境内はやはり廃仏毀釈の影響を受け、義久の墓石や日進日露戦争、あるいは太平洋戦争の慰霊塔を残すばかりとなっています。 ![]() 金剛寺に残る義久の仏塔。高さは5m以上もある立派な層塔です。規格もさることながら、梵字と思われる刻まれた書体が往時の風格を偲ばせます(霧島市のHPによると「妙谷寺殿貫明存忠庵主」という法号が刻まれているのだとか。)。 境内は廃仏の影響を大きく受けていますが、仏塔そのものは義久の3つの墓石の中では最も当時の仏教様式を残す墓所となっています。 住所:霧島市国分中央 アクセス:JR国分駅より徒歩20分程もしくはタクシー。 ③徳持庵跡 徳持庵は金剛寺と同じく義久終焉の地国分にありました。 同様に徳持庵に関しても霧島氏のHPより概要を抜粋。 廃仏毀釈で徳持庵が破壊された後、金襴の袋に納められていた分骨を、明治8年に埋葬した墓といわれています ![]() 徳持庵跡は歩道のすぐ脇にありました。案内板もたっていますが、うっかりすると見過ごしてしまいそうなほどひっそり佇んでいます。 ![]() 明治8年と明確に建立のときが刻まれています。 ![]() 刻まれたのは神号のみで法号は刻まれていません。墓石も明らかに近代のものを思わせる造りです。(刻まれた「慶長十六年辛亥正月二十一日」は命日でしょう。) 他の2か所に比べると慶長当時の匂いははるかに薄いですが、その分、激しかったとされる薩摩の廃仏運動の影響を強く印象づける場所でした。 実は上井には義久の娘にして18代当主・家久の正室である亀寿の墓もあるようなのですが、そちらは見つけることはできませんでした。(上井は狭い区画なのでそう遠くないところにあると思うのですが) 住所:霧島市国分上井5-2 アクセス:JR国分駅より徒歩30分程、もしくはタクシー 以上元々は戦国島津氏の足跡を巡る旅の予定でしたが、結果としては、明治期の廃仏毀釈の様相も同時に偲ぶことのできる貴重な訪問となりました(完全遂行したとされる鹿児島の廃仏毀釈も寺それぞれによって破壊の状況やその後の経過が違ったことをうかがえました)。 次回以降また他の島津一族の墓や名刹跡も訪ねていけたらと思います。 <参考> 島津修久「島津家 旧福昌寺墓地概要」(平成17年) |
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