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2012年 12月 31日
2012年 02月 12日
島津氏の城に関して自分が今持ってる疑問・論点をメモっておきます。読みやすさなども考えずダラダラ書きます。画像申し訳程度!字ばっかり!全部未解決ですよ! ご指摘ございましたら是非(twitter: @s_walker38k) 【Ⅰ】論点:島津家の人々の城郭認識(主に文禄~慶長) ![]() 朝鮮役・関ヶ原を経て、織豊の流れをくんだ近世城郭が全盛を迎える時代、「山城+麓屋形」の独自のスタイルを維持した島津家。他家の人々、あるいは後世の人々は「鹿児島城」を見て簡素と言います。しかし、島津家内部ではどのようにとらえていたのでしょうか。ここでは島津家の人々が「城」というものをどう認識していたのか考えてみようと思ってます。 当時の島津家の城郭認識・仮定 ①麓屋形のみ ②麓屋形+山城の複合型 ③山城のみ 考察 ①→文禄・慶長期に島津の三殿(義弘・義久・家久)が築いた城郭は屋形居館の造築をメインに行っている(詰め城をもっているとしても、大規模な改築は行わず中世山城をそのまま転用している所が多い)。以上のことから、この当時の島津家の居城は戦闘性の高い中世山城よりも、政庁としての利用性が高い方形居館の運用を重要視したのではないか----。 というのは、私がK先生の本を読んでまず抱いた印象なんですが、史料の方を読むと「○城」の呼称は居館背面の山城の方を指している事例(鹿児島城1)、2)、後述する国分新城3))が見受けられるので、やはり麓居館だけでは島津家の城は成立しないのではないかという気がしてます(詰め城のない富隈城の扱いが難しいですが)。 ②、③→上記の理由も踏まえて一般的に考えると②が一番無難なように思えます。ただ、個人的には③の可能性も捨てがたいです。島津家が「城」という言葉に軍事性のみを求め、居住性や政治の場と言う要素をさほど求めてないとすれば、麓の屋形は「城」とみなされてなかったという見方もできないでしょうか。各種史料を求めると主に、「城郭」という言葉の定義、「城」の持つ要素そのものも考え直しながら考察してみたいです。 (参考文献) 1)鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書(26) 鹿児島(鶴丸)城本丸跡(昭和58)「(略)鶴丸山之御城は、四神相応之御城二て、(略)」 2)三国名勝図会(桐野作人「さつま人国誌」より転載)「(忠恒が立地の吉凶を占わせた)明人の江夏友賢は「(上山城址が)四神(ししん)相応(そうおう)の地で、大吉である。ここに屋形を巽(たつみ、南東)の方位に向けて構えれば、千年不抜の基(もとい)となりましょう」と答えたという(「三国名勝図会)」城の主体が城山の方であり、屋形は山城立地選定の後に場所を決められたことがわかる。 3)【7】参照 【Ⅱ】疑問:外城制(鹿児島城からの距離に依存した外城機能の分析について) ![]() 寛永年間には113城あったといわれる島津の外城。江戸期には防衛あるいは行政の最小単位として機能したと言われています。 外城制に関しては、鹿児島城からの距離毎にその機能を分析した研究があります1)2)。外城の道路形態、規模、野町・浦町の有無(商業・産業の形態)から精緻に分析された研究です。しかしここでちょっとした疑問があります。義久・義弘が死去し、忠恒が分家含めて完全に家中を掌握しきり、鹿児島に権力が一極化された後の時代の外城認識としては、鹿児島城を同心円中心とした外城の分析はすんなり納得できます。 しかし、義久・義弘・忠恒の三殿に権力・戦力が分散された時代にはまた別の解析が必要になるのではないでしょうか。 朝鮮役・琉球出兵3)には三殿それぞれが別個の戦力を派兵していることを考えると、少なくとも関ヶ原後の薩摩の臨戦防衛体制を考える為には、鹿児島城一城を最終防衛拠点とする見方はできないのではないかと思います 国分(富隈)・加治木(帖佐)・鹿児島城三か所それぞれに防衛ラインの同心円中心を置き、朝鮮役・庄内の乱・琉球出兵の陣立てと外城の地頭突き合わせ、更に各外城の縄張り眺め手見れば、何となく三殿のパワーバランス見えそうな気がしてるんのですが、中々…。 (参考文献) 1) 鈴木公「城郭大系18 研究ノート 島津藩領の麓」 2) 三木靖「歴史群像シリーズ 戦国九州三国志 島津氏外城マップ」 3) 旧記雑録(桐野作人「さつま人国誌」参照) 【Ⅲ】顕彰:鹿児島城は本当に「簡素」な城郭か? ![]() この項に関してはいずれ記事にまとめるつもりですが一応メモしておきます。 鹿児島城の造りが「簡素」する評が定説になってることに関しては、明治時代に城跡を訪れた本富安四郎が「薩摩見聞記」に記した「( 外様大藩)にしては造りが簡素で)不思議」という記述の功罪が大きいと思います。今ではこの文言がすっかり定説になっていますが、この言は上ノ山城(城山)が廃城になり居館だけになった状態の鹿児島城を評したもので、城山と居館が複合的な形態をとった築城時の姿を評したものではありません。 では、築城時の鹿児島城(山城+居館)が熊本・福岡城の様な織豊系城郭に匹敵する規模だったかといわれると勿論そうとは言えません。 麓の屋形には高石垣・枡形虎口・水堀が備えられる一方、城山の方は石垣なども普請されず、中世築かれた山城の遺構をそのまま継承していたといわれます。ではこの中途半端な普請状況を状態を一般的に言われる「財政難だから」「(武装しないのは)幕府に配慮したから」で締めていいのでしょうか。 「財政難」というのは庄内の乱や朝鮮出兵の影響を考えると頷けます(鹿児島城築城に反対だった義弘の手紙にもその状況は伺えます)。しかし、一方の「幕府への配慮」はどうでしょう。大阪の陣が終わっても、忠恒は新城普請や外城の中世山城の維持に積極的ですらあります。 ①一国一城制を無視した外城・中世山城域の維持(元和)、慶安には幕府の黙認も取り付けてます1)。 ②建昌城への居城遷城申請(元和、寛永:共に却下)2) ③国分での新城普請申請(寛永13年。なんと受理されている!)3) はたしてこれを「武装解除」「幕府への恭順」といえましょうか?福島家が広島城修繕をきっかけに改易を受けたことを考えるとよくぞこれだけと思えます。 というわけで、現在は「鹿児島城が一見簡素・山城普請が中途半端だった」理由に関しては桐野先生が「薩長土肥の城」で書いておられた「忠恒は建昌城への転居がずっと頭にあったので、鹿児島に本格的な城を築かなかった(引用はうろ覚え)」とする説が個人的には一番しっくりきます。このような流れを述べたうえでの鹿児島城を「簡素」と称する発言ならば、それは納得です(笑) (参考文献) 1)「川上久国雑記」1650年、幕府巡見使が外城制の存続を詰問、川上久国の言い訳で黙認された(某ウェブサイトより転載。一次資料は未確認) 2)旧記雑録(さつま人国誌「鶴丸城物語(上)」参照) 3)鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書(26) 鹿児島(鶴丸)城本丸跡(昭和58)(一次史料未確認) 【Ⅳ】疑問:鹿児島城の石垣 ![]() 鹿児島城の石垣はほぼ切り石で築かれています。築城時の姿を残すところはあるのでしょうか。鹿児島城の発掘調査データを記した本には「古態を良く残すところは枡形を中心としたところである」とありましたが、実際に見ると枡形内も亀甲積みなどの切石で積み上げられ(写真右)、同時期に築城された義久の舞鶴城(写真左)とはだいぶ石の加工の度合いに差がありました(義弘の加治木館は築城時の石垣が残ってないので考慮外)。 個人的には鹿児島城の築城当時の石垣は現在残る石垣の背後に隠れているか、あるいは全面的に積み直されているのではないかと考えていますが、もしあの枡形内の石垣が忠恒の時代のものだとすると、国分と鹿児島の技術格差は中々に興味を引く話題になりそうです。 (参考文献) 鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書(26) 鹿児島(鶴丸)城本丸跡(昭和58) 【Ⅴ】疑問:外城の中世山城が廃城免れた理由。また、放棄された時期。 ![]() まんまです。 "1650年、幕府巡見使が外城制の存続を詰問、川上久国の言い訳で黙認された(川上久国雑記)"という情報をネットで拝見しました。その言い訳に関しては何かの本で「薩摩・大隅はシラス台地の上に中世山城が築かれてるので、それを崩すと麓に被害が出る(だから崩せない)」という記述を見た気がするんですが、ほんとにそんな理由が幕府に通じるのか?(笑)一次資料をあたって調べてみたいです。 また、いつ頃から外城の山城に手が加えられなくなったのかも興味があります。 【Ⅵ】鹿児島城の北東の隅の鬼門落とし ![]() これもⅣと同じような話題ですが、鬼門避けの隅落とし。いつ頃からあったのでしょうか。風水の要素がふんだんに取り入れられた1)城なので、築城当初からあったとするのが一般的でしょうが、正直あの当時の薩摩の石垣の技術であのような細かい折れが作れたのか、作れたとしたらどのような具合になってたのか興味があります。 (参考文献) 1)鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書(26) 鹿児島(鶴丸)城本丸跡(昭和58) 【Ⅶ】疑問:国分新城の呼称 ![]() Ⅰの話題にも通じますが、義久の国分の屋形は「城」と呼んでいいのか?という疑問。少なくとも幕末においては「国分新城」の呼称は詰城の「隼人城」の方を指して用いられているようです(三国名勝図会1)、大久保利通の書簡2))。一方城郭大系等では麓の館を「国分新城」と呼んでいます。こちらも恐らく何か根拠となる史料があるのでしょう。こちらも探して「国分新城」の定義をしっかり把握したいです。 (参考文献) 1)三国名勝図会の記述「上小川村にあり、今新城と云、又鶴丸城とも云、隼人記に、隼人城と記す、相傅ふ火(不明)降命の後裔、大隅隼人の故城址なり、(中略) 2)大久保の書簡の記述(桐野作人「さつま人国誌」より転載)「(国分新城の立地に関して)要害堅固はもちろん、海岸から一里ほど(約4キロ)を隔てているうえ、(浜には)一里ほどの浅瀬もあります。たとえ数千の軍艦が押し寄せてきても、枕を高くできる要地で、東南の眺望はほかに比較できないほど類がなく、自然に陽気を含蓄(がんちく)して、実に申し分がありません」要害堅固という表現は麓屋形には相応しくなく、詰城の方を指していると思わせる。 3)旧記雑録の記述「慶長九年十一月廿七日、貴明公(義久)濱之市□國分に御移被成候事云々、」「一慶長九年甲辰、相宅地於大隅國府、而更成土木功、十二月、去同州富隈移居于其地者也、」 ※ まだまだあった気がしますが、思い出したときに追記します。 2012年 02月 05日
福岡城跡を「上の橋」から出てすぐ東側に、こんな不思議な入口があるのを御存じですか? 下るとそこにあるのは土曜にしか見ることができない福岡城の地下遺構!今回、公開時間を狙い澄まして潜入してきましたので、その内部を簡単に報告しておきまする。 ![]() 福岡城地下遺構 2011年 12月 25日
天正年間、ほぼ九州を手中に収める勢いで北上を続けた島津。その当時の島津家を率いた当主、島津義久の墓地は鹿児島県内3か所に残っています。今回その三か所を巡る機会を得られたので、ここにその様子をまとめておきます。 ![]() More 2011年 12月 18日
島津三殿(義久・義弘・忠恒(家久))の居城巡りを目論んでるので、その時代変遷を地図上にまとめてみました。(※お城の位置は大体の位置です。令制国のちゃんとした白地図が欲しい…) 城以外の話(この時代の島津の活動や時代背景など)はあまり載せてませんので、この時代の島津になじみのない方には優しくない記事かもしれません…(主に自分の考えまとめるために作成したので)。 平面プランや各パーツの話は実際訪れてから試みたいと思います。 ※ご指摘ございましたら随時ツイッターかコメント欄にお願いします。 ![]() 伊作島津家の鹿児島入り(天文19年)~秀吉の九州征伐(天正15年義久降伏) <備考> ・岩剣城および麓の平松居館には岩剣城の戦い後に入城。 ・日向飫肥城へは豊州島津家の養子として入城。 ・当主義久が内城を拠点にする一方で、義弘が前線の城を次々任じられているのがわかる。 ・誤解を招きそうな記述ですが、「貴久のち義久」は内城を居城とする当主が貴久死後義久に移り変わったことを意味しています。 情報を集めきれていない点 ・内城入城以前は貴久・忠良は一宇治城を利用?(歴史群像シリーズ12:三木靖先生の記事に記載あり) ・義弘は肥後守護代を命じられると八代城に入城している(さつま人国誌:桐野作人-島津義弘と栗野城)が、居城は飯野城のまま? ![]() 秀吉の九州征伐後(天正15年頃) 義久・義弘の“二殿体制”が始まる。 <備考> ・泰平寺で秀吉に謁見し降伏した後、義久には薩摩一国が安堵される(大隅・日向は召し上げ) ・後、義弘(当時忠珍)に新恩として大隅国が与えられる(旧領の真幸院は義弘長男の久保に) ・秀吉が島津家の勢力分断を図る為、当主義久に代わり、弟の義弘を取り立てようとした為の仕置きと考えられている。 ![]() 太閤検地後、発行された御朱印状による変遷(文禄4年頃) 三殿時代の幕開け <備考> ・朝鮮役で義弘嫡男の久保が陣没(文禄2年)。当主義久に男児がいないこともあり、三男忠恒(後家久)が次期当主と目されるようになる(これを受け、忠恒は義久の三女亀寿を娶った)。 ・文禄4年に検地の結果、秀吉が義弘宛てに知行確定の朱印状を送る。 義久:10万石(大隅中心) 義弘:10万国(薩摩中心) なお、太閤蔵入地が薩隅国境沿いに両国を分断する形に設けられた。 (臣従に消極的な義久の家中での権力を削ぎ、豊臣化に積極的な義弘を実質的当主として取り立てようとする為の豊臣家の仕置きと考えられている) ・それに伴い、義久が鹿児島を出て、大隅の富隈城に入城。 ・一方、義弘は当主である義久を差し置いて鹿児島に入城することを憚り、薩隅国境近傍の帖佐に館を築いて入城したといわれている。鹿児島(内城)へは次期当主である忠恒が朝鮮陣から帰国後入城。 ![]() 三殿時代の居城の変遷2(慶長9年~12年) <備考> ・慶長3年時点の蔵入 義久6万5千石 義弘6万5千石 忠恒6万石 ・慶長4年、義久から忠恒に御重物(家宝)が渡される(=家督相続)。同4年相続取り消し、後7年に籤(くじ)とり結果、改めて忠恒に家督相続が決定(桐野作人先生の講演会資料(2011.9.25)より) ・忠恒:内城が手狭になり、鹿児島城を築き慶長9年に入城(築城は慶長6年~9年?)。なお、築城に際して父義弘から立地選定に関して反対を受けている。 ・鹿児島城築城に伴い、内城は廃城となった。(跡地は大龍寺として利用された。) ・義弘が領有した加治木は港・銭鋳造という要素を抱えた一大経済拠点だった(下記の木島氏文献) <参考文献:順不同> 木島孝之「城郭の縄張り構造と大名権力」(2001) 南九州城郭談話会・北部九州中近世城郭研究会合同研究大会・資料集(2011) 吉永正春「九州戦国合戦記」(2006) 桐野作人「さつま人国誌」 桐野作人 講演会資料「義久と義弘-波乱に満ちた戦国島津兄弟の闘い-」(2011.9.25) 桐野作人「島津義久」(2005) 歴史群像シリーズ12「戦国九州軍記」(1989) いずれそれぞれの情報に一次資料のRefふりたい…。 |
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